農業レポート
多様性といのちの絆から見た農業哲学
多様性の概念を農業哲学として「生命力」の観点から見ると?
今の慣行栽培は、自然の変動要素をできるだけ排除し、人為的に
環境を管理し、栽培しやすくする方向で発展してきました。
水耕栽培、施設栽培など工場型生産方式もそうですし、
遺伝子組み替え技術もそうです。
それは、消費者の志向が、単純な機能を求めるようになってきたこととも
連動しています。
複雑な味ではなく、「甘い、辛い」など、シンプンルで極端なものを
尊重するようになってきたことと連動しています。
消費者の舌に、幅がなくなってきたのです。
すなわちここでも、多様性の喪失が顕著になってきております。
これは、極めて人為的操作がしやすい社会的状況とも言えます。
ただ、その結果、自然とは離れて行き、
農産物の工業品化を推し進めて来ました。
これは、農業生産者にとっても都合がよく、
非常にマーケッティングがしやすく、量産効果もとりやすいのです。
しかしここに大きな落とし穴があります。
それは、「生命力」と言うものの存在を忘れてしまっていることです。
生命力とは、本来「子孫形成」の機能です。
生命再生機能こそが生命力の原点です。
「性」とは、本来そのために存在したのですが
今や、人間社会的においても、単なる欲望の一形態となって
しまいました。
自然の持っている制御機能を取り外してしまう方向に
どんどん進んでいます。
「生命」には、「時空を超えた存在としての意義」があるのですが
今や、現代社会の刹那的な生命観は、「自分ごと」でしか考えられ
なくなってきたのです。
「生命力」は一律均等に与えられるものではなく、各個体に応じて
提供されるものです。「寿命」というものと同じ概念です。
「一律均等」という世界観が、個としての生命の意義を希薄化させて
しまったのです。
実は、自然栽培、自然農は、これとまったく異なる世界に存在しております。
ひと言で言いますと「みんな違って、みんな良い」。(金子みすず)
私は、156本のニンニクを植えました。
結果は、大小さまざま、標準というものが存在しないのです。
慣行栽培・有機栽培では、肥料を与え、下のかさ上げをしますから
ある程度、作物がそろいます。
ましてや、種にF1種を使えば、更にそろってきます。
しかし、そこでは、与えられた肥料の分だけ、生命力が劣ってきます。
自然栽培では、一つ一つの種は、違った環境の中で
それぞれの最適解を求めて行きます。
その意味で、小さくても大きくても、生命力は同じなのです。
「生命の循環をあずかるものとしての責務」を果たそうとするのです。
ここに、自然栽培に携わる者の、大事な哲学・倫理が存在します。
「時空を超えた、生命の循環に携わる者」としての心がまえが
求められます。
農業とは、生命を預かる仕事であり、聖業としての「慎み」が求められます。
本来、自然栽培では、大きなジャガイモも小さなジャガイモも同じ値段なのです。
生命力を頂くという観点から見ると。
しかし、今の消費者は、それでは納得しないでしょう。
小さなジャガイモを買った人は、文句を言うでしょう。
消費者に見えるのは、大小であって、生命力は見えないのですから。
「見えないものが、実は一番大事なのだ」ということを、
消費者も学んで頂く必要があります。
自然栽培は、お客様とともに成長して行くビジネスです。
私が、このビジネスを選んだのは、その1点にあります。
永く生命を預かる者として、お客様とともに学んで行きたい。
これが、このビジネスを千年事業にする要諦であると思っております。
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